トップページ > ひうら農場について
新潟は中央部にあたる弥彦山のふもと、吉田町本町(もとまち)。
本町というと繁華街を思い浮かべる人も多いことと思いますが・・・
自動販売機もない地域でございます。越後平野の一部にあたり、
信濃川の分流を水源とし、百姓を27代営んでおります。
(本当に僕で27代かは怪しいものだと思っていますが・・・。)
先祖は京都の「源 頼政の妻:菖蒲御前」の家来だったと言い伝えられています。
菖蒲御前がこの地に来たとされるのが、保元元年(1156年)7月、平治の乱(へいじのらん)の三年前、
とされており、約800年前とされていますので、その頃、我が家の初代さんも来たのだろうと思います。
様々な言い伝えがありますが、
部落のお寺が火事になり、詳しい書物はあまり残っていないのですが、
お墓を調べますと、確かに僕のおじいちゃんが25代目にあたるようです。
色々な物が残っていますが、たいして価値のないものばかり・・・。
謎の多い、古い家でございます。
樋浦家の言い伝えはこちら→『 「おっこの木」 樋浦邦彦氏 著 』
この「小さなお米屋さん」を始めるきっかけをお話いたします。
H5年、大凶作の年、日本の農業は大きく変わり始めました。
我が家もその大きな流れに衝撃と困惑を伴いながら、すべてが変わりました。
我が家は、お米・きゅうりを中心に食用菊やチンゲン菜などを農協の指導を受けながら耕作していました。
H5年から肥料は自分で作る、お米は自分で売る、というようにすべてを自分自身でまかなうようになりました。
なぜか?それは、『食べる人のこと、環境のこと、次世代のこと』を考えると必然的にこのような態系になったようです。
実際、僕は父・母のこの考えに共感し、この家を継ごうと大学進学の時に決めました。
こんな感じで、22世紀に続くことのできる?
農家の形になったのではないでしょうか!?
あまり大きなことを言っても誤解を招くだけなのですが、それよりも僕は農業が結構好きです。
好きだから続けていきたいし、上手になりたいです。
そして、大事に大事に育てたお米や野菜を、
食べてくださる方と一緒に楽しみたいと思っています。
当サイト管理人:樋浦家27代目 樋浦幸彦(ヒウラ ユキヒコ)です
~経歴~
この世に生れ落ちて、早30余年(1977年生れ)・・・
ハイハイしている頃に、親父にできたばかりのハウスを
泣きながら這わされたという農業の申し子?と噂されるわたくしでございます (o^-^o)
2000年に『農業者大学校』を卒業し、嫁を連れて帰ってきた私ですが、
気づけばすでに5年の歳月が流れているではありませんか(x_x)
決して無駄ではなかった5年間でしたが、今思えば無駄の多い日々でしたね・・(*´Д`)=з
しかし、父の入院をきっかけに僕の中で『意識』が変わり、経営者としての自覚が
少しずつ芽生えてきたみたいです。(現在進行系で発育中)
なんとな~く家族みんなで仲良く暮らしているわけであります。
ここで少し、『農業者大学校』について・・・東京は多摩市にある我が母校は、
3年制ではありますが実務経験1年の経歴がないと入学できないという面白い学校でして、
高校卒業後、近くの農家に住み込みで働きました。
その趣旨を説明しますと、現場で疑問を持ち、それを机上で学ぶということのようです。
学校に入学しますと、一年はずーっと勉強のみ!
そして、二年生になるとまた自分で興味のある農家を見つけ、
また現場で半年実務をするという素晴らしい理に適ったものでした。
そして、三年生になると今度は自宅に二ヶ月程度帰郷し、問題点を見つけ、
学校でそれを卒業論文にするという流れでした。
しかし、我が母校は『小泉さんの抜本的改革』のなか、無駄なものとされ、廃校に追い込まれています。
同窓会の皆さんや、講師の方、職員の方の懸命な努力は続いていますが、時間問題かと思います(x_x)
私はこの学校で農業の『心』を学びました。良い経験をしました。何より素晴らしい出会い、仲間ができました。
本当に残念です(TωT*) この学校に出会えない農業の後輩達は、不運だと感じます・・・。
そんな感じで各地を渡り歩き、帰ってきた私ですが、最近思うのはまだまだ勉強不足!
これから勉強あるのみとういうことですね(o^-^o) 経歴あんまり関係なしだったかな・・・。
2005 6月 一笑百姓 樋浦幸彦
(写真は、2014年撮影です。)
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