邦彦氏には幾度となく我が家を訪れて頂き、聞き取り調査や資料の検索など
多忙にも関わらず、大変ご熱心に取り組んでいただき、
この場ではありますが
深く感謝の意を示したいと思います。ありがとうございました。
「おっこの木」は自主出版されており、このサイトにはその一部を
氏の了解を得て掲載しています。
は し が き
彦七殿(ひこしちろん)の昔からの言い伝え(伝承)は、私たち子供の頃、年寄りから折に触れて語り聴かされて来ました。
この度、それらの話を何らかの記録に残して後世の子供・孫達に伝えたいとの思いから執筆を思いたちました。
思うとおりにできたかどうか判りませんが、彦七殿の当代の人々から聴いた話を何とか活字にすることができたと思っています。
昔、屋敷内墓所の南西側に盛り土にシキミの木とイチイの木が植えられていました。
彦七殿の伝承のところでふれますが、その盛り土の中から古銭が入った壺が発掘されています。
現在、そのシキミは前庭中央に移植され、3メートルは越しています。
樹勢は少し衰えてきましたが、シキミの実から生えた木が墓所北側にも有り、毎年黄白色の花を咲かせています。
シキミは家族の誰(どなた)かが亡くなると小枝を枕元にお供えして、ご冥福を祈っているとのことです。
「しきみの木」は、広辞苑によると、モクレン科の常緑小喬木(きょうぼく)。
山地に自生し、また墓地などに植える。高さ約三メートル、葉は平滑。春、葉のつけねに黄白色の花を開く。
花弁は、細く多数。全体に香気があり、仏前に供え、また葉と樹皮は乾かして粉末とし、抹香または線香をつくり、材は器具用。
実は甘いが猛毒。などとあります。
イチイは、「おっこの木」とも言われており、現在、庭や生け垣などに数十本植えられていますが、
シキミとともに盛り土に植えられていた頃のイチイは、まるで大蛇(だいろ)がとぐろを巻いた様に大きな木でした。
残念ながら、そのイチイは昭和の後半に枯れてしまいました。
現在のイチイは別の木から挿し木にしたもので一彦さんが丹精して育てましたが、成長が遅い木ですのであまり大きくなっていません。
筆者は、兄弟の間では「お兄さんや兄貴」ではなく、あるときから突然「おっこ」と呼ばれるようになりました。
それは、既に亡くなった父が彦七殿の伝承を話してくれたとき、「おっこの木」についても話があったと記憶しています。
名前が「くにひこ」と呼びにくいことと、お兄さんというのが言いにくかった末の弟が、ふとした弾みで、
筆者のことを「おっこ」と呼んだことからそれ以後筆者の通称は、「おっこ」となってしまいました。
そんなこともあって、「おっこの木」は筆者にはとても愛着がある庭木です。
「おっこ」の音で近い言葉は、広辞苑に「億劫(おくこう)」という仏教語が記載されています。
意味は、「一劫(いちこう)の億倍、時のきわめて永い称。数えつくされぬ程の数。転じてわずらわしいこと。
面倒で気が進まないこと。おっくう。」と著(あらわ)されています。また、漢字源によると、「劫」は「きわめて長い時間のこと。
インドでは、梵天(ぼんてん)の一日は、人間の四億三千二百万年を「一劫」という。」と著されています。
考えるに「おっこの木」は、かなり永い年月、彦七殿の盛り土や庭に植えられて生きてきているため、
お寺の和尚さんが「億劫(おくこう)の木」と言ったのではないかと思います。
それを聴いた当時の家人は、「おくこうの木」→「おっこの木」となったものと思われます。
この冊子の題名を、「おっこの木」としましたが、彦七殿の屋敷に植えられていたイチイの木が盛り土に植えられ、
その後傍(そば)の庭に移植され長年彦七殿では馴染みの木となっています。
そこで、彦七殿の長い年月を見てきた庭木、「おっこの木(イチイ)」を尊(とうと)び「彦七殿の伝承」の題を「おっこの木」とすることにしました。
樋 浦 彦
「彦七殿ひこしちろん」には先祖についての話や興味深い数々の言い伝えがあります。
資料があるだけで文献がないものや、資料や文献が全くないものもあります。
(一)小判が入った壺の出土
昔、現在の母屋に建て替える際、庭の一部に盛り土があり、そこに「シキミとイチイ(おっこの木)」が植えてあり、
その盛り土を移動するため、掘削したところ、根元から壺が出土したと伝えられています。
その場所は墓の南西側で、出土した壺に添付されている書き付けによると、
「樋浦幸多郎さん」が安永二年(1773・江戸時代)に発見しています。
壺は中世陶磁器(室町時代)で、発見時には中に古銭(朱に漬かった小判)が入っており、埋納銭容器として使用されていました。
そのときの壺は箱に入れられて保存されていますが、その当時の兄弟たちがその小判を持ち去り古銭は現存していません。
昭和五十四年に調査が行われた吉田町史によると弥五郎屋敷遺跡の壺は
「口縁端部は外傾し、わずかに外側に摘(つま)む。底部外面は静止糸切り痕(こん)を残す。
年代は、吉岡編年のⅤ期(十五世紀)に比定できる。」となっています。
(二)本町(もとまち)むじな
昔、彦七殿には本町「むじな」が住み着いていた。母屋の仏間の下あたりから穴が東に向かって開いており
それがむじなが住んでいた穴だということです。当時の基礎は、大きな石などを置いただけの基礎でした。
茶の間の梁は、囲炉裏(よろぶち)のすゝで真っ黒に光っていますが、「たもぎ」の大木二本が使われており、数百年経ったものと思われます。
平成七年にそれまでの母屋を増築・改装する際、建物の基礎を全て作り替えて、北側に約四メートル曳き家しました。
その際、むじなの穴と思われる穴が現れました。仏間から茶の間にある囲炉裏の下まで穴が開いていたことが確認できました。
その穴は工事のため、現存していませんが、位置は現在、母屋南側廊下の下付近になっています。
この「むじな」、泥棒を化かして追い返したり、いろいろな悪さをして追いだされたとか・・・守り神のような感じだったようです。
しかし、仏間のオリンの音が嫌いだったとか、大工さんについて栃木の山に行ったとか・・・。
粂七爺(くめしちじい)さん(二十三代)が「栃木の山」にその「むじな」を奉(まつ)ったホコラ(お堂)があったらしく、
そこにお参りに行ったそうです。「むじな」をその山に連れて行ったときに何かおしゃべりしたとか・・・色々言い伝えがあります。
道楽息子が一時仏間の下に隠れ住んでいたことがありました。そのとき孫祖母(まごばあ)さんが
家のものに気づかれぬよう食事を運んでいたという話があり、それも本町むじなと言われています。
どーも壺の小判を使ったのもその「人間むじな」のようです。
(三)旧弥五郎屋敷跡
昭和三十七年頃、彦七殿の土地は本町城跡(旧弥五郎屋敷跡)として遺跡発掘調査が行われました。
このとき埋蔵数量は多くありませんでしたが、数々の遺物が発掘されました。
埋蔵物は、吉田町の教育委員会で保管され、特に報告書は出ていませんが、その調査に基づく吉田町史のなかに種々記述されています。
また、越後地誌風俗全書「温古の栞」(下)三十二編 歴史図書社刊に「小高(こたか)の古城跡」として次のような記述があります。
「西蒲原郡彌彦荘(しょう)本町(もとまち)地内小高の古城跡と言うは西川(にしがわ)の東岸にひんし平城なり
明應の頃へ(1492~1501)国乱に際し同荘彌彦の神官 浅倉主殿河村雅楽(しんかんあさくらもんどかわむらがらく)という
智勇兼備(ちゆうけんび)のもの、此処に城を築き不逞(ふてい)の跋扈(ばっこ)を征伐せしと言い傳(つと)う。
今は田畑にひらけ館(たて)の内(うち)の名称のみ残る、時に明治二十年五月十八日本町村平倉(ひらくら)仁吉なるもの
此の城跡の畑を耕(たがや)すをり、地下三尺に小皿全(こざらまった)き物十八枚(三種あり)を堀得(ほりえ)て秘蔵(ひぞう)す、
其の古雅掬(こがきく)すべきものなり。」と著されています。現在の屋敷の敷地は、周囲にハウスや畑がありますが、
一辺が約百メートルの方形の土地になっています。
(四)家紋について
現在の家紋は「三つ投網」です。家紋帳には載っていません。浅草の三社様の紋所「三社紋」に似ていますが、
三社紋は、編み目が大変細かく表されているうえ先端がTの字になっています。「三つ投網」の紋所は編み目が粗く、
網の先端が「大」の字になっています。大昔の紋所は、別の紋で現在「寺泊の分家」が以前の紋所を使用しています。
それは何代か前に婿養子が来た時、どうしても「三つ投網」の紋所にすると言って変更されたそうです。
(五)彦七殿の先祖
彦七殿の先祖と言うのは、源三位頼政の御前(あやめ御前)が越後に下って来た時のお付きの一人と言われています。
しかもあやめ御前は頼政が妖怪の「ぬえ」を退治しその功労に対していただいた方で、ご褒美はほかにもあり、
天皇の御剣と御衣も賜ったと言われています。その過大なご褒美(ほうび)を人々は嫉(ねた)み、
あやめ御前が都に住んでいられなくなったため、お付きのもの共々にこの越後に下って来たとのことです。
この際、彦七殿の祖先にあたる兄弟は三人であり、一人はこの本町彦七殿の地、一人は弥彦山の麓、
もう一人は新潟県西蒲原郡西川町槇島鎧郷にそれぞれ居を構えたとのことです。
(六)源頼政の「ぬえ」退治
源頼政の「ぬえ」退治は、平家物語・源平盛衰記などに詳しく記述されています。
平家物語の成立年代は、鎌倉時代と思われていますが、平家物語は、琵琶法師などに語られるために書かれた台本で、
各流派により記述内容やニュアンスが異なっているようです。
源平盛衰記はおそらく僧侶等により書かれたと思われますが、物語を面白くするための脚色があるようです。
平家物語の「ぬえ」退治は、二度に渡って退治し、一回目は「ぬえ」そのものを退治し、ほかに「ぬえ」のようなものを退治したとあります。
また、「ぬえ」の様子は、頭は猿、むくろは狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿と書かれています。
源平盛衰記では頭は猿、背が虎、尾は狐、足は狸、音は「ぬえ」とあります。しかも「鵺(ぬえ)」は漢字では、へんが「夜」と「空」があり、
つくりは「鳥」という2文字があります。源平盛衰記ではへんに「空」が使われています。そのほかに恠鳥(ぬえ)と書かれている文献もあります。
声は一声、鳥のような声で泣くだけでふた声とは泣かないとの記述があります。
源平盛衰記では、かの変化のものを清水寺の岡に埋めた、そして主上のお悩みたちどころに良くおなりになった。
ご褒美に、鳥羽院より獅子王と申す御剣と御衣一重脱ぎ添えて関白太政大臣基実公をお使いにて頼政に下さりけり、
頼政は橋(階段)の三階に右の膝をつき、左の袂を広げてこれを拝領した。五月二十日あまりの事なりとあります。
(七)巻町の金仙寺(こんせんじ)について
巻町史につぎのような記述があります。
竹野町の菖蒲山金仙寺(真言宗智山派)は、一説に平安中期の長和三年(1014)七月、僧憲昌の開基によると伝えられる古刹であるが、
もと一乗教院と称したらしいことと、過去帳の記載から、かつては天台宗であったと思われる。一乗(一つの乗り物)とは、仏教において、
真実の教えは唯一つで、それによっていかなる衆生(しゅじょう)も全て一様に成仏すると説く教えである。
人の資質や能力に応じて三種の悟りの道があると言う三乗に対して、天台宗では一乗を強調し、法華経の精神を体得することによって、
三乗の道がそのまま一乗になるとし、大乗の中で特に一仏乗は最高の教えであるとするのである。
一乗教院の名のりは、いかにも天台的である。しかし、僧憲昌建立の寺は、醍醐報恩院の末寺(まつじ)であったというから、
天台宗から早くに真言宗に改宗したのであろう。(京都市伏見区醍醐寺の醍醐派は、「古義」真言宗中の有力な一派である。
現在の金仙寺は真言宗智山派であるから、覚鑁―玄宥(かくばんげんゆう)の流れをくむ「新義」真言宗智山派である。)
もとの本尊は、薬師如来であったようだが、その後小堂を残して廃寺になったという。
伝説によれば、平氏打倒のため源頼政は、以仁王(後白河天皇の第二皇子)に勧めて、治承四年(1180)平氏討伐の令旨によって
挙兵して京都を脱出し、追撃する平氏軍と宇治で戦い、敗北して平等院で自刃するが、その時夫人の菖蒲御前を越後に逃がしたという。
菖蒲御前は剃髪してこの地に草庵を結び、天皇より頂いた観世音菩薩(弘法大師作といい、現在の金仙寺のご本尊)を安置して、
頼政の菩提(ぼだい)を弔った。貞応二年(1223)菖蒲御前が八三歳で没したあと、嘉禄二年(1226)従者がこの寺を創立し、
菖蒲山金仙寺と称し、僧道辨を開祖としたと伝える。と記述されています。
また、金仙寺に関して「温古の栞」(上)巻二に次のような記述があります。
金仙密寺
西蒲原郡竹之町(たけのまち)村菖蒲山(あやめさん)金仙密寺(こんせんみつじ)は
上古の草創(そうそう)にして鎮守(ちんじゅ)には日吉山王(ひよしさんおう)を勧請(かんじょう)に其の社殿は
古名工飛騨(こめいこうひだ)の木工たくみが造(つく)るものと言う。治承の乱れ源頼政入道宇治(よりまさにゅうどううじ)の
一戦に敗(はい)を取り戦没(せんぼつ)せられしかば、菖蒲(あやめ)の前まえ(頼政或時禁闕(きんけつ)(御殿)にて
鵺(ぬえ)を射(え)し時、賞(しょう)として賜りし官女(かんじょ)なり、頼政に相(あい)従(したが)うて一子を挙(あ)ぐ)は
故(こ)入道の采色(さいしう)(色をつける)たるを以て一子小國(をぐに)吉政郎等(よしまさろうとう)猪いの隼太家資(いえすけ)を
具(ぐ)して窃(ひそ)かに当地に寓居(ぐうきょ)し護念佛(ごねんぶつ)空海師作(くうかいしさく)の観世音(かんぜおん)を當寺の
境内(けいだい)に堂(どう)を建(だ)て安置(あんち)し入道の菩提(ぼだい)を吊(とぶら)い其身も此(ここ)に
終焉(しゅうえん)せり、故に菖蒲山(あやめさん)と名づく。其観世音の台座に旧記(きゅうき)書き付け今に存す。
堂の周(めぐ)りは竹林(ちくりん)にして毎年三四月の頃此竹を撰伐(せんばつ)する日は必ず降雨(こうう)すと言傳(いいつとう)う。
山内(さんない)に菖蒲の前館跡(やかたあと)とて今尚(なほ)お礎石井壺(いしづえいつぼ)の跡あとあり、又菖蒲塚と唱うる
方五六間四面高一丈五尺の古墳あり。寛政年(1789~1801)中里人密(ひそ)かに此塚を掘発(ほりあばき)しに、
小瓶(さかがめ)一個古鏡(こきょう)一面ありしを瓶は市(いち)に鬻(ひさ)ぎ(商う)鏡は同郡釋迦塚(しゃくかつか)
村谷江(たにえ)氏の家に蔵(ぞう)し經(わた)り八寸背文楽器(せぶんがっき)を鐃(ち)りばむ。
(ほりきざむ)唐鏡(とうきょう)なりと言う。小國吉政は後のち同所多寶山(たほうざん)の
麓(ふもと)松ケ島(まつがしま)という小山に館(やかた)して住(じゅう)す今に旧跡を存す。
近傍石瀬村(きんぼういしぜむら)田の中に周囲(しゅうい)一丈二三尺美麗(びれい)なる老松(ろうしょう)
一株塚上(つかじよう)にあり小國吉政墳墓(ふんぼ)の標(しるし)とす。里人は頼政松(よりまさまつ)と唱う
吉政従臣(じゅうしん)の後裔(こうはい)と言るもの同郡堀村(ほりむら)にあり今尚ほ栄(さかえ)り又猪隼太家資住居の跡は
竹之町村淨福寺(じょうふくじ)の境内とす隼太塚とて菖蒲塚の近傍に方三四間高一丈許りの古墳あり。
当地に近き南谷内(みなみやち)村某方に頼政の鎧并(よろい)ならびに太刀(たち)を傳でん来らいすといふ。
おふで様の用語について
1 所送寒暑 [しょそうかんしょ] (御文章 P.1109)
寒暑(冬と夏のことで一年の意)
所送寒暑とは、「一年を送るところ」となります。
出典: 浄土真宗聖典プロジェクト『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2 多屋の内方 「たやのないほう」
吉崎の当山において多屋の坊主達の内方とならんひとは、
まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。
【注釈版聖典 ご文章一帖十通 多屋の内方の章 1098頁】
蓮如さまが吉崎御坊を建立されて二年余り、この「ご文章」が書かれた頃には、
御坊(本坊)の周りには多くの宿坊(多屋)が建てられていました。
それは越前や加賀の有力寺院各地から参詣する門徒の宿泊所を造ったもので、
地方寺院の坊主たちの妻(内方)や寺族が宿泊者の世話をしていました。
この「ご文章」はその宿坊(多屋)の坊主たちの妻(内方)に宛てたもので、女人成仏の教義を懇ろに述べられています。
地方寺院の住職も宿坊の主人も、坊の主、すなわち坊主と呼ばれ、大きな寺院の住職は大坊主と呼ばれていました。坊
主は本来、僧侶の尊称であり、その妻を内方と呼んでいました。坊主は後の蔑称となりました。
◇妻たちの呼称
広辞苑を見ますと、「内方」(1)他人の妻の尊敬語、(2)内儀、内室、うちかた。
「裏方」(1)貴人の妻、特に本願寺法主の妻、(2)他人の妻の敬称「内儀」(1)転じて他人の妻、
特に町人の妻の尊敬語、お内儀(内議・内義)。「内室」(1)貴人の妻の尊敬語、おくがた、
(2)転じて、ひろく他人の妻の尊敬語、(3)令室、令夫人。「家内」
(1)他人に向かって自分の妻をいう。「坊守」(1)寺坊の番人、(2)小さい寺の身分の低い僧、
(3)浄土真宗で僧の妻。だいこく、ないほう。とあります。
浄土真宗以外では、僧侶は出家(独身)が建前ですから、その妻は公然と名乗ることができず、
内妻(内縁の妻)、大黒(僧侶の俗称)、梵妻などと呼ばれ、肩身の狭い思いをしています。
浄土真宗は、在家仏教を公称し、宗祖自身が肉食妻帯して破戒僧を自称されていますから、
住職の妻を「坊守」と呼び、寺院の主婦として堂々と活動しています。
寺院坊舎の玄関で「住職の妻です。」と胸を張ることができる女性は、真宗寺院だけではないかと、
男女平等、女人成仏の宗風を自讃したいと思います。
◇五障三従は女性蔑視か
五つの障(女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏身になれない)、三つの忍従(幼時は親に、
嫁しては夫に、老いては子に従う)は女性の地位の低いことを示す差別語です。
蓮如さまは女性蔑視を肯定する意図ではなく、「五障三従というが本当は男女平等に救われるのだよ」とおっしゃっています。
【参考文献 蓮如さまの法語掲示板 杉本 顯俊師 探求社刊】
3 吉崎御坊(よしざきごぼう)
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吉崎御坊(よしざきごぼう)は、越前国吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。
現在は、「史跡 吉崎御坊跡」の石碑が立つ。
御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派の別院が、東側に真宗大谷派の別院が置かれる。
ともに「吉崎別院」と称するため、本願寺派の別院を「西御坊」・「(吉崎)西別院」、
大谷派の別院を「東御坊」・「(吉崎)東別院」と通称される。また、「吉崎寺」(本願寺派)・「願慶寺」(大谷派)などの
寺院、本願寺維持財団が運営する「吉崎御坊 蓮如上人記念館」がある。
4 御文章(ごぶんしょう)とは?
『御文(おふみ)』ともいい、真宗八代目の蓮如上人(れんにょしょうにん)が、
親鸞聖人(しんらんしょうにん)のみ教えを、どんな人にでも分かるようにと、易しく書きあらわされたお手紙である。
現在、『御文章』として広く知られるものは、五帖(じょう)八十通(つう)から成る。
そのうち、初めの四帖は年代順に、五帖目には年月のないものが収められている。
一帖目一通は文明3年(1471)、上人57歳の御作であり、四帖目の最後は、明応7年(1498)、上人ご入滅の4カ月前のお手紙である。
浄土真宗が今日のように、全国各地へ伝えられたのは『御文章』によるところが大きい。
あ と が き
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひび)きあり、
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)のことわりを顕(あらわ)す。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂に滅びぬ、ひとえに風の前の塵(ちり)に同じ。
遠く異朝(いちょう)をとぶらえば、秦の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、
・・・・・是等は皆旧主先皇の政(まつり)ごとにもしたがわず。
楽みをきはめ、諫(いさめ)をもおもいいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、
民間の愁(うれう)る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがうに、
承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、
皆とりどりにこそありしかども、まじかくは、六波羅(ろくはら)の入道前(さきの)太政大臣平朝臣(たいらあそん)
清盛公と申し人のありさま、傳承(つたえうけたまわ)るこそ心も詞(ことば)も及ばれね。
と平家物語は書き始めています。
「平家物語」「源平盛衰記」は、今からおよそ七〇〇年ぐらい昔、鎌倉時代の後期に書かれたとされています。
その題が示すように、源氏と平氏の興亡が題材となっています。
その前の時代、平安時代を支配した貴族、藤原氏にかわって、日本を支配しようとした武士のなかで、
最も頭角をあらわした源氏、平氏の争いは頂点をなす平清盛の全盛時代から、やがて、
各地にひそんでいた源氏が立ちあがり、ついに平氏をうちほろぼし、源頼朝が鎌倉に幕府をはじめる、
約三十年間のたたかいの興亡についてつづられたものです。
源平盛衰記は、物語四十八巻にえがかれていますが、平家物語は十二巻にまとめられています。
平家物語は、長門(ながと)本・南都(なんと)本・延慶(えんぎょう)本やそれらの異本などいくつかの本があります。
平曲は琵琶をひきながら語った琵琶法師の台本ということから、文章に音楽的に磨かれて統一されています。
作者は不明ですが、おそらく僧侶で、何人かでまとめられたものだろうとされています。
源平盛衰記中の事件や人物は、その後、謡曲や演劇、小説の題材になったものが多く、
これらに書かれている内容は、日本人の心深くにしみこんでいます。
彦七殿の伝承を調べているとどうしても一つのことが気になってきました。
平家物語や源平盛衰記の書き始めの「盛者必衰」という言葉です。
一般的には「無常感」と言われています。彦七殿の先祖は、あやめ御前をお守りして越後まで下ってきて、
見知らぬ土地での日々の生活には、さぞ苦労したであろうと思われます。
信濃川の支流西川による肥沃な土地の恩恵にあづかり、その後城を築くことができたが、
何らかの理由により城そのものは落ちてしまいました。 現在、城があった当時の大きな敷地が残っており、
それとても伝承によると家勢の浮き沈みがあったと言われています。
ときとして、多大な借財を抱えて、家族総動員で借財を完済して現在の繁栄を築いていますし、
それはその時々の家族が一致協力した賜(たまもの)です。
その元になるのは、先祖が残してくれた土地(べと)があり、日々弛(たゆ)むことなく汗水流して働いたからです。
皆がそれぞれ日々研鑽して、つつましく暮らしてきたためと承知しています。
源頼政は、七十五歳になるまで体制に逆らうことなく精進したことにより三位まで昇進できました。
しかし、七十七歳になってから体制に逆らい、自らと一党が滅亡することになってしまいました。
発端は以仁王の令旨(りょうじ)です。頼政が令旨を出すよう進言したと言われています。
その後、源氏が勢力をつけて平氏を追討し、頼朝が幕府を開くことにつながっています。
筆者が源頼政とあやめ御前との出会いなどについて、調べて書き留めようと思ったのは、
外孫である私に、父が名前をつける際、屋号「彦七」の一字を取って「彦」と名付けたこと。
彦七殿の第二十五代当主・樋浦一彦氏から、あやめ御前の伝承について調べてみて欲しいと言われたこと。
あやめ御前が越後に来た経緯については、伝承のみで記録されたものがなかったため、
その部分を含め彦七殿に伝わる種々のお話を記録に残そうと思ったことからです。
もっとも私は、生まれてから何かにつけて父親の親夫婦(樋浦粂七・キミ・第二十三代当主)からかわいがられました。
そして、毎年、小学生時代の夏休みに弟と彦七殿のお世話になりました。
殊(こと)に、一彦氏をはじめ年上の従兄弟のみなさまからも大変お世話になり感謝しています。
そして、伝承を調べ進めるうちに、次のようなことに気づきました。
私自身を含め、普段から己を知り身の丈に合った生活を心がけること。
健康に留意しつつ自らを高めること。また、家勢の隆盛を目指すことが肝要。と思うようになりました。
願わくばこの冊子を読んで下さった方々は、以上のことに留意され健康で明るい家庭生活を営まれんことを期待します。
最後になりましたが、執筆にあたって第二十五代樋浦一彦・テル子夫妻 第二十六代樋浦幸吉・なつ子夫妻
第二十七代樋浦幸彦・泉美(いみ)夫妻にお世話になりました。
さらに数々の著書を引用させていただきましたが、参考文献を記して深く感謝申し上げます。
樋 浦 彦
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